『野火』

夏に見逃していた『野火』が上映される機会がありやっとみることができました。



これは戦争映画でしょうか?

感動も悲壮もありません。

ただ淡々と過ぎるおそらくは死への時間。


戦争映画に感動や悲壮があるのは『人間』がいるから。
人間がドラマを作るから。

でも人間がいなければ?

『野火』にあったのは人間でなくなってしまった元人間。

肉。

そこでの生きている人間と死んでいる人間の違いと言えば、新鮮な肉か、腐った肉か。
動く肉か、動かない肉か。

蛆の湧いた屍体が喋り出したら、いよいよわからなくなりました。


死んでいるの?生きているの?


生きてることと、死んでいること、ここでは何が違う?

みんな肉。


人間が他の人間を食むことは人間であるならば許されません。
そういう風にできています。


しかしただの肉なら。


新鮮な肉か、腐った肉か。


戦争の極限は人間をただの肉にする。



『野火』が映した人間は気づけばただに肉の塊になっていました。

人間が肉になる境目が、戦争には在る。

肉となったら感動も悲壮もない。


それがリアルの戦争。


ラストシーン、記憶に新しい『アメリカンスナイパー』にも共通すると評されます。
わたしは若松監督の『キャタピラー』が思い浮かびました。


一度戦争に行った人は戦争が終わっても終われない。




火は消えません。

田村の戦争は終わりません。




始まったが最後。







主演に『ヴィタール』からの続投で、浅野忠信に出演して欲しかったそうです。

わたしも観てみたい。

一ノ瀬泰造の迷彩姿の浅野忠信が懐かしい。

それでも今回は塚本監督の鬼気迫る演技こそリアルでした。
リアルに鬼気が迫ってからこそ。



こんな邦画があってよかったと久々に思った映画でした。