『海にかかる霧』観ました。

 

 

観てからもう2ヶ月ほども経ってます。

わたしの観た初週は劇場満員でしたね。

 

 

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『海にかかる霧』/韓国2014年

日本公開2015年 配給ツイン

監督 シム・ソンボ

脚本 シム・ソンボ、ポン・ジュノ

 

 

クルーについて。

ポン・ジュノ&シム・ソンボは言わずもがななので省略させていただきます。

 

まず気になるのが、

音楽監督:チョン・ジェイル。
『海にかかる霧』の音楽がとてもよかった!!

冒頭の沖の波の音×哀愁漂うピアノに始まり、映画の世界観が耳からぶわぁ〜〜っと広がります。

その音楽監督のチョン・ジェイルは舞台音楽をむしろ手掛けてまして。
JYJペンとしましては2012年に主演男優賞を受賞したジュンスのスピーチが印象深いミュージカルアワード、その翌年2013年のミュージカルアワードでチョン・ジェイルが音楽監督賞を受賞されていました。このときの主演女優賞がジュンスと共演の多いチョン・ソナ。
またチョン・ジェイルが兵役中に一緒に曲を作ったというパク・ヒョシン。
わたしは2013年エリザベートはシアトートの公演を観ましたが、同じくトート役だったのがパク・ヒョシン。真ん中の金髪イケメントートさんです。実力派。

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と、舞台音楽畑の方と思いきや、ジェイルさんはアレンジャー出身でイ・ムンセやユンサンからEPIC HIGHまでジャンル関係なくミュージシャンの作詞作曲編曲アレンジを手掛けたり、自身もソロアルバムをリリースしていて今年の韓国大衆音楽賞の最優秀ジャズ&クロスオーバーアルバム賞を受賞されました。

MAMAのオープニングでピアノを弾いたり、アイドルグループのボーカル総出演的な番組テーマソングのアレンジを担当したりなど多方面に韓国歌謡界で活躍中の超マルチミュージシャンなのだそうです。

いつかジュンスが出演するミュージカル音楽を手掛ける日が来るかも知れません^^

『海にかかる霧』という社会派映画の音楽にチョン・ジェイルを選んだのはおそらくシム監督じゃないかなーと。センスありますね。元が戯曲のこの作品を映画化しただけに舞台と映画、それに韓国歌謡界を跨ぐチョン・ジェイルはぴったりだと思います。

なんとまだ32歳です!(°_°)

ユチョンと4つしか変わりません。

 

 

撮影監督:ホン・ギョンピョ
撮影監督作ブラザーフッドで撮影賞総なめした名撮監。『イルマーレ』、『反則王』、『母なる証明』、『スノーピアサー』など。

 

アクション監督:チョン・ドゥホン
アクションだけでもめちゃめちゃ楽しめるスーパーアクション映画『ベルリンファイル』(サスペンス映画です)で釜山映画評論家協会賞技術賞を受賞。『ファイ 悪魔に育てられた少年』でアクション監督。『群盗』『GIジョー2』で武術担当。イ・ビョンホンがチョン・ドゥホン武術監督をハリウッドに参加させたいというかつての思いが叶いGIジョー2で共に参加することになったそうです。


製作総指揮:キム・ウテク
過去作
製作『グエムル(ポン・ジュノ)』『メビウス(キム・ギドク)』、
エグゼクティブプロデューサー『新しき世界(パク・フンジョン)』『嘆きのピエタ(キム・ギドク)』『7番房の奇跡(イ・ファンギョン)』『マラソン(チョン・ユンチョル)』など。
大物プロデューサーですね。

 

製作に名を連ねるキム・テワンは、メジャーな方ではないのですが近年立ちあげた映画や音楽の企画制作会社の方(多分社長さん)で、2016年ポンジュノ監督新作、キムジウン監督(『箪笥』『悪魔を見た』)新作の『人狼(原作日本アニメ)』を企画中のようです。※『人狼』は製作延期中

 

実力派が占めていることろ、大御所揃い!というのではなくいいとこ取り!て感じの面々。益々センスを感じます。


では感想へ。

 

 

公開当初からむき出しの人間の本性、狂気、エゴ、韓国らしい生々しいバオレンスが〜、なんていうレビューをやたら見たんですがどんな怖い人たちが出てくるんだって、

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 ↑こんなんではありません。

 

船の船員たちは『全員普通人』。

特別悪人でも善人でもありせん。

 

もし朝鮮族の密航者の中に韓国で殺しを依頼されついでに行方不明の出稼ぎの妻を探しにきたハ・ジョンウが乗っていたらユンソク船長率いる船員との大バトルアクション映画になっていたかもしれません。(邦題:黄海にかかる霧)

 

キム・ユンソクが出演しているおかげで哀しき獣のネタがあちこち、ちょいちょい出てきてますね。

 

 

先週ふらっとダルデンヌ兄弟の『サンドラの週末』をみまして、これが地味ながら確実に映画の登場人物のいずれもの当事者意識に観客をぐいぐい引き込んでいく力のある映画で、海にかかる霧も同じくどの登場人物の当事者意識にも、船の閉鎖空間まるごとにも観客が巻き込まれていくタイプの映画でした。もしかしたら自分もこんな手段を取らざるを得なかったかもしれないという逃れようのない状況で感じることは…。いかにも怖い人が出てくるとか、強烈な負の感情やバイオレンスが怖いとか、わかりやすい恐怖がある映画ではありません。絶対的な悪人はいません。純粋な悪意もありません。

ポン・ジュノ監督のおそらくはもっとも有名な映画、『母なる証明』の“母”をジャッジできる方はいらっしゃるでしょうか。

海にかかる霧で誰より存在感があったのが、船長チョルジュ。

わたしはチョルジュをジャッジできません。

犯罪者はジャッジできてもお父さんはジャッジできません。

ユンソクさんの狂気オーラがどんだけ凄まじかろうともチョルジュはサイコじゃありません。

韓国映画の鉄板凶器の斧を振り回すと板に付きすぎてどうにも不死身のミョン社長チラついちゃいます。(ユンソクさん韓国一斧が似合う俳優だと思いますわ。)

でもそれじゃないのはまず目が物語っているのでさすがの名俳優です。中盤からこの船長さんトントン拍子にドエライことなっていって、狂ってるし、でもそれはミョン社長のモンスター的な怖さじゃなく父性の怖さというか。父だからなりふり構わず家族を、船を守ろうとする底知れなさ。(そこに自分が父でありたいが故のエゴも多少はあるんですが)

得体の知れない怖さじゃなくて知れる怖さ。

そして怖いのはキャラクターの狂気そのものより、この状況ならばともすれば誰かの狂気に共感してしまうかもしれないという見ている方の感情。

母なる証明の母の怖さもこの類でした。

 

チョンジン号に絶対悪はありませんが表面的にはチョルジュとドンシクは対照的に映されます。ドンシクは温厚でチョルジュは攻撃的というように。

ユチョンのキャスティングを決めたのがシム監督で、その理由が善良そうなオーラが出ている人だったからだそうです。誰が見ても善良に見える顔。普通のいい人。

ドンシクは見た目からも想像容易い普通の純朴な青年。

でもそのいかにもないい人がついには一線越えちゃいます。ホンメのために。

性格や顔などぱっと見正反対のチョルジュとドンシクの対比が活きていて、対照的な2人でありながら極限状況から脱出するための理由や取った手段(という大なり小なりの犯罪)は極めたら同じだったということ、大義名分は同じだったこと、この船上での犯罪を前にはどちらもただ『普通』の何かで、そこに善も悪もないということ。

この船上の惨劇って結局、

 『どうしてこんなとになってしまったんだろう』

に尽きるとわたしは思ってます。

 

ユンソクさんのインタビューにチョルジュはただ『父』だったとありました。

そしてドンシクはただホンメが好きな『男』でした。

ユチョンはドンシクのそれを一方で利己的な、両面性があると言っていました。

 

シム監督が撮りたいのは悪の所在や暴力の残忍さより犯罪の因果。

殺人事件の原因の90%が痴情のもつれで、愛と罪に興味があると監督談がありました。ヒューマンサスペンスがお好きなようで。

 

メインのHOTな男、チョルジュとドンシクに絞って書きたいと思います。 

 

 

チョルジュについて、

自称、チョンジン号の親父で大統領。

 船(という家・国家)のためならわりとなんでもします。

 船内のルール(法)を脅かすものは海に捨てます。

 

刃向った朝鮮族の男性は船の秩序を乱すので海にポイ。

うっかり殺しちゃった朝鮮族のみなさま、証拠は乗せておけないので海にポイポイ。

頭いっちゃった機関長も事件をバラされては具合悪いんで家族ではありますがやむ終えない、海にポイ。

うちの末っ子ドンシクをたぶらかしたホンメも地獄絵図見られちゃってるし生き証人だし始末して海にポイしてしまいましょうかと、甲板長お願いしたり。

 

船を沈ませそうなものは船には乗せて置けませんから。

捨てるのみーー!

 

船が沈みかけたときチョルジュは言います。

 

『この船は重すぎる。』

『全部捨てないと沈んでしまう。』

 

渾身の力で碇や網を海に捨てるチョルジュ。

捨てる前からあの船にはチョルジュ自らがたくさんを積みすぎていましたから。

不況にあえぐ時代に家族である船員やその父であることのチョルジュのアイデンティティとか、かつては名を馳せた凄腕船長としての矜持とかそれぞれの船員の思いとか密航者とかその密航者の希望とか、廃船にしろと言われるほどのおんぼろ船でありながらチョルジュは大事な自身の一部のような、というかもうチョルジュにはそれしか残ってないその船にいっぱいいっぱい詰めこんで、外部から閉ざされた船の中でこそ船長やってたわけです。

ドンシクにはホンメしか無いようにチョルジュにはチョンジン号しか無い。

チョンジン号のキャパはとっくにオーバーしてました。フィジカルもメンタルも積みきれないものをたくさん積んでいつかは沈むをときを待っていたボロ船。

そして船を守るためと自ら捨てた碇に足をひきずられて同じ海に沈んでいくチョルジューーー

 

皮肉です。涙

このシーンは贖罪にもみえました。

(シム監督はポン監督と同じくクリスチャンですよね?多分)

 

 

 

ドンシクについて、

 

今回撮影監督が母なる証明のホン・ギョンピョさん。

母なる証明で草原の中オカンが彷徨う非常に印象的なシーンがあります。

一線を越えてしまった後のオカン。

これから一体どこに行けばいいのか、

道もない枯れた草原を一人ふらふら彷徨うオカン。冒頭のシュールなダンスシーンに繋がります。

 

オカンの岐路。

 

それを彷彿されるカットが海にかかる霧にもあって、

浜辺に打ち上げられたドンシクが目を覚まして立ち上がったシーン。

上下に海半分陸半分、その海と陸の境界線にドンシクが立ってるパースでした。

海と陸のド真ん中にドンシクがいて。

後ろにはドンシクが生活してきた海が。 

陸にはホンメの足跡が。

 

岐路に立っているドンシク。

 

 

6年後、ドンシクは工事現場で働いていました。

ソウル南西部の九老工業団地(現ソウルデジタル団地)。元は朝鮮戦争後に遡り韓国の地方の若者が上京し働き戦後復興の経済急成長、漢江の奇跡の原動力となったところ。その後外国人労働者が増えていき加里峰洞・大林洞の朝鮮族の町が形勢されたそうです。ドンシクがいつ頃からこの辺りで働いていたのかはわかりませんが、朝鮮族が流入してきたのはIMF後なのでドンシクが来る頃には街は出来上がっていたのかもしれませんし、ドンシクの上京と共に形成、成長したのかもしれません。

朝鮮族は韓国人からは中国同胞とも言われていますが、同胞と言っても場合により韓国では差別があるようで。在日コリアンが完全同胞と認識されていることに比べ、延辺の朝鮮族は同じ朝鮮民族でありながら歴史的観点から差別があるようでうす。

『慶州』や『キムチを売る女』のチャン・リュル監督は延辺出身の朝鮮族の方で、多民族国家の中国の方が差別は少ないとイタンビューで述べてありました。遡れば文化大革命で迫害された少数民族モンゴル族だけではなくその他の民族も、朝鮮族も同様だったという歴史も中国にはありますが。波乱の民族。

こういうの、韓国の方や韓国に詳しい方がみたら映る風俗だけで普通にわかることなんですよねきっと。自分は隣国でありながらあまりに知らないんだと都度都度思い知らされます。

 

あの海と陸の境目で、陸にどこまでも続くホンメの足跡を眺めるドンシクのカット(ドンシクの岐路)からこの九老区、加里峰(朝鮮族の街)にシーンが移るのはドンシクがホンメの足跡から導かれ、ホンメの街にたどり着いたようにも思えました。

仕事帰りにドンシクが1人で行ったお店の看板『延吉飯店』が大きく映ります。

ここは2004年でも漢字とハングルが入り乱れており、ソウルっ子からみると決して治安のよい町ではないようです。『哀しき獣』でソウルに出稼ぎに行ったグナム(朝鮮族)の奥さんがこの街の蜂の巣住宅で暮らしていました。日本の1960~70年の高度経済成長期に地方からの多くの労働者が寝泊まりしていた当時の木賃宿みたいなかんじですかね。ドンシクもやはり狭い長屋に1人住んでいたのでしょう…。

 

ドンシクは『延吉飯店』の常連さんのようでした。仕事終わりにドンシクの同僚たちは韓国料理のド定番サムギョプサルを食べようって言ってたところドンシクは一人お客さんのほとんどが朝鮮族の延吉飯店にラーメン食べに来てたわけでしょう?

そこにホンメの懐かしさや、どこかにホンメが生きているかもしれないというあわーーい希望もあったからかなーと思いました。

たまたま地方からの出稼ぎ地域の繁華街だからといえばそうなんですが、わざわざ朝鮮族の定食屋に通うかな?そこのラーメンがお気に入りだったというのもあったにせよ、ソウルのどっか適当なごはん屋で偶然ホンメみつけたー!というのではなく。

偶然は偶然にしても。

ドンシクはホンメが一番いそうな地域で働いて、ホンメがいそうなお店に通っていました。

 

そこで見つけたホンメは母親になり、

ドンシクは父親にはなりません。

 

もしこれがチョルジュならそうではなかったと思います。

ドンシクも船に乗っているときは極限状態で愛し合ったホンメといつかは結婚して家長に、父になろうと思ったこともあったでしょう。 

 

でもなれませんでした。

そして後にホンメを見つけたときは、なれない、じゃなく、なりません。

それがラストシーンのドンシクの顔。

 

超絶単極にこの映画の結論を説明すると、

『ドンシクが父にならなかった愛の話』

とも言い切れます。 

存在感のあったキャラクターはチョルジュ船長ですが、この物語は最初から最後までドンシクとホンメの物語として一貫して描かれています。

 

 

父にならないことを、ホンメに配偶者がいたための諦めと取るとネガティブなんですが一方で命がけで守ったホンメとその子供の幸せがあの海での惨劇の唯一の救いです。

ジレンマを含みつつも。

ホンメが6年の間に死んでしまったり散々たる状態だったらそれこそドンシクのあの船での犯罪はなんだったのか、なんで船が沈んでまで守ったのか?ってならないかな。

あのときドンシクはホンメと人生を共にしよう、伴侶になろうと思っていましたがそれ以上にホンメを生きて陸にあげようと思っていたわけじゃないですか。

自分が死のうがホンメには生き残ってほしかったと思うんですね。

 

そして消息不明のホンメは生きていました。

子供もいました。

 

 

 

 

 

 

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ドンシクのテーマソングはどうきみでお願いしますね(;ω;)

 

 

ホンメ親子を見て少し切なく思うことがあればドンシクにとっての贖罪なのかもしれません。罪の肯定と贖罪って矛盾してるんですけど。

ホンメのためにドンシクは父にはならないでしょう。でもドンシクの罪があってホンメの今の愛がある。

これも監督の言う愛と罪のひとつなんじゃないかなぁ。

 

ホンメはなぜドンシクを置いていったのか?

いくらドンシクのおかげで陸に上がれたとは言え、あの船のおかげでホンメは地獄を見たのです。同胞が魚層に閉じ込められ結果殺されてしまったも同然を、その遺体を切断して海に捨てているのも目撃していて、ドンシクがそこに居たのも知っています。ドンシクは一連の非人道的行為にそこまで戸惑いはなさそうでした。ホンメを隠すことに必死でそのためならなんでもできたと思います。チョルジュが船のためならなんだってできたように。

ドンシクは犯罪者になってしまいました。

ホンメは危険を犯して韓国に密入国し、やっとの思いでその地を踏んだとき冷静に考えて犯罪者と生涯を共にすることを考えるでしょうか。ましてや兄が韓国に居て。そもそも韓国には実の兄を訪ねてやってきたホンメ。

ホンメには子供が2人いましたからもしかしたら一人はドンシクの子である可能性はあっても二人目は違います。ホンメには家庭がありました。長女がもしドンシクの子供ならあの後ホンメは異国ですぐに身重になってしまったわけで、1人で生きていくのは困難です。またビザや永住権のことを考えた結婚もありうると思います。ホンメもまともな職につくのも困難な土地で子供を育てて大変な6年だったはずです。

ドンシクが法的に裁かれたのかどうかは不明ですが、ホンメはドンシクと居る限りは陸に上がってからも当事者として事件に巻き込まれることになっていたでしょう。

船上で劇的に愛し合った二人が生き残ったのだからこの先も、と思ってしまいましたが現実に戻るとホンメの判断も生きる上では仕方なかったと。

 

陸に上がったら現実。

全てを覆い尽くすような海霧はもうありません。

 

ドンシクには霧が晴れて見えた現実が絶望だけではなかったというラストでしたが、だからと言ってめでたしめでたしではありません。

しこりののこる、でもバッドエンドでもありません。

 

ラストのドンシクには言葉にできない気持ちになりました。

 

監督が言うにはオープンエディングではないそうです。

 

 

この映画の感想コメントに人間のエゴという言葉をよく見ました。そして家父長制。

 でも、父性はエゴなのか?

という問いにNOというラストだったと思います。

だからドンシクは父であるかもしれなくても父にはならなかったんだと。

そういう父性。

 

あのドンシクがIMF後の韓国の家父長制の意識の変化?というのがうたまる氏談にもありました。この映画の設定は実際の事件から3年戻されていて、それはIMFの始まりに合わせてるとおっしゃってたんですね。この船で起こったこととIMF最中の韓国社会が時系列でリンクするように。その後の変化も。

弱きをたくさん捨ててでも沈むわけにはいかなかったチョンジン号は、国民を切り捨ててでも潰れるわけにはいかなかった韓国でありチョルジュは大統領でした。

船員たちの家族のように機能していた人間関係が崩れていったように韓国の国民性のひとつでもある国民同士の横の繋がりが崩れて行ったのもこの辺りからだったのかな。家族のつながりや、同時に家父長制も少なからず変化したのでしょうか。

ドンシクが父にならなかったのは韓国での家父長制の崩壊=父の愛の多様化にも思えます。

いまだに根強く残ってるものもありますが。

シム監督は家父長制については否定的に映されていましたが、父性をエゴとして否定していなかったと感じました。

母なる証明の母性はもっとグレーで描かれていましたが。そこで描かれていた背景の韓国社会もグレーでした。  

 

殺人の追憶光州事件が背景にある民主化時代のサスペンスで、海にかかる霧も同様にシム・ソンボさんの脚本は時代背景の説明があまりないです。なくても楽しめる映画ではあるのを踏まえて、

韓国が舞台となっては『IMF』という言葉はとても象徴的な言葉です。国際通貨基金のことではなくてその時代を指す言葉として。日本人の使う言葉でいう『バブル』のような。

『아이엠에프(アイエムエプ)』と言っているセリフを字幕では全て『IMF』ではなく『経済危機』と翻訳されていました。

経済危機でも正しい意訳ではありますが、また口語の訳として、当時の韓国社会を映す固有名詞として『IMF』のままが映画ではいいんじゃないかと思うんですけどね。

素人の憶測だと字幕で重要なのは言葉の音やリズムや口語的であることよりわかりやすさだからこういう翻訳なのかもとは思いますが。

日本映画に『バブル』って言葉が出てきたら韓国ではどういう風に翻訳されるんでしょうか。

 

 

 

ちなみにドンシクがホンメと再会した2004年、ユチョンは同じくソウルで東方神起として華々しくデビューしていました。

わたしが遊び惚けていたあほな十代、韓国の若者は激動の時代だったんですね。

ドンシクの波乱の人生の始まりはIMFの影響です。ユチョンもまた一家でアメリカに渡ったのはIMFの影響でした。この映画の舞台の年にユチョンは渡米していることになります。ユチョンが慣れないアメリカでしんどい学生生活を送っていた時代とドンシクがチョンジン号沈没後あくせく働いていた時代が同じなんです。ユチョンは後にSMのオーディションを受けて東方神起としてデビューしました。東方神起は日韓ともに成功を収め現在はJYJ、俳優として活躍していますが、ドンシクはあれからいったいどうなっちゃったのかな。

 

映画の世界だったら九老で日雇い労働をしていたドンシクがふと目にしたテレビにユチョンが映っていたかもしれません。

 

 

 

 

 (画像お借りしました)